先週、夜遅くに会合が終わり、船橋駅から三咲駅まで帰る途中、普段は新鎌ヶ谷駅で京成松戸線に乗り換えるのですが、考え事もあって、三咲の自宅まで歩いて帰りました。直線にして約4キロ、帰路は50分ほどかかりました。初富駅まではそれほどでもありませんでしたが、初富駅から鎌ヶ谷大仏駅までの距離がとても長く感じました。翌朝、革靴で歩いたせいか膝への負担が大きく、ミシミシと痛みを感じました。慣れないことはするものではありません。
最近はスニーカーで通勤される方も多く見かけるようになりました。スポーツ庁でも歩きやすい服装での通勤を奨励しており、また、災害時の観点からも、大規模災害の発生時は公共交通機関が停止し、自宅へ帰ることが困難になることが予想されることから、スニーカーの通勤は有効な備えであると思います。
道中、初富駅から二和向台駅までの区間(約2キロ)が一番長く感じましたが、この初富・二和・三咲という地名の由来は、開拓された順番であることをご存じの方も多いと思います。もともとこの一帯は江戸幕府の軍馬を育てるための広大な放牧場であり、明治維新後、明治政府の主導のもと土地の開墾が始まり、入植した順番がそのまま地名になったとされています。
4月14日、船橋市議会の議員研修で、戦後80年・市制施行90年を前に船橋の近現代史を学び直すと題した講義があり、船橋市郷土資料館の学芸員の方から地元の歴史について大変興味深いお話を伺いました。
先ほどの放牧場の跡である野馬土手が、現在も二和の一角(滝不動へ向かう狭い抜け道のあたり)に残されており、市の文化財として保存されています。京成松戸線(旧新京成線)が、旧陸軍鉄道連隊の演習線で実戦を想定した訓練のため、あえて急カーブやS字カーブ(直線だと敵機から狙われやすいが、線路が蛇行しているほうが攻撃から避けやすいという軍事的な理由)が多いことや、三咲小学校の現在地が、かつて陸軍の無線送信所跡であること。そして行田公園が旧海軍無線電信所跡であり、太平洋戦争開戦時の暗号電文「ニイタカヤマノボレ」を発信した基地の一つとして知られていることなどです。
書ききれませんでしたが、これらの資料や写真は、船橋市郷土資料館(習志野駐屯地前)で展示されているほか、船橋市デジタルミュージアムでインターネット上からも見ることができます。大型連休を間近に控え、来年に市制90周年を迎えるこの機会に、ぜひ船橋の歴史に触れてみてはいかがでしょうか。